[福田実枝子さんの言葉]


 

 

 思考 に関わる 日本語

 

  日本人にとって日本語は、周囲とのコミュニケーションをとるのに欠かせないものであることは誰もが知っています。身近な人との直接的・具体的なやり取りならば、日本語を使わなくて済む場合もあるでしょう。しかし、過去や将来のこと、抽象的なことを多くの人に伝えるのには日本語は欠かせません。それだけでも日本人にとって、日本語は必要不可欠なものです。

 

  しかし、それ以上に私が日本語を大切に思うのは、私たちの思考に日本語が関わっているからです。私たちはほとんどの場合、日本語によって考えていると思います。そして、考えをまとめ、整理するとなると、日本語で文章にまとめてみます。

 

  ですから、私が専門とする国語の授業では、話す・聞く・読む・書くということや言葉・文法について学びながら、コミュニケーションの力を高めているだけでなく、思考力を育てているのです。

 

  また、芸術作品である文学も国語の授業で学びます。国語の時間に文学作品を学ぶことによって、人間や社会に理解を深めたり、想像力を養ったり、情緒を豊かにしたりしています。

 

  こう考えてくると、国語は、日本人の成長を支える教科だということができます。

 

 

  の願う 授業 とは

 

  私は42年間、中学校教師として子どもたちに、自分の本意を伝えるために、そして自分を向上させたり自分の生きている環境をよくしたりするために、言葉を使える人間に成長してほしいと願い授業をしてきました。

 

  しかし、最近「話す・書く」の教科書教材をみると、自分や自分の所属するところを主張・宣伝するために、言葉が使えるようにしようという傾向を感じます。次の学習指導要領では目標に「社会生活に必要な国語について、その特質を理解し適切に使うことができるようにする」という文言が入ってきますから、その傾向がますます強まるのではないかと懸念します。

 

  また、読むことの指導では、必要な情報を取り出すために、特別な設定をして子どもたちの活動をしくむという教授法が盛んに行われています。情報を取り出すという指導では、思考力は養われません。その筆者のいうことを鵜呑みにするだけで、筆者のいうことに疑問がないかどうかを考えたり、筆者の考えについて自分の考えを持ったりすることには至らないと思うからです。

 

  また、人に紹介するとか、質問された場合とか、特別な場を設定して文章に向かわせることには疑問があります。小中学校の国語は、自立した読む人を育てるための教育です。特別な設定がなくとも読める人にしておきたいです。読むことは感動を伴うこと、こんな視点に注意して読むと筆者の意図が分かるということを、読むことを通してわかっていく授業をすることの方が有効だと考えるのです。

 

  これは、たとえ細かなアプローチは異なったとしても、どの子どもにも共通する向き合い方ではないでしょうか。やはり、思考にかかわる日本語の大切さを私たち一人ひとりが再認識する必要があるように感じます。

 

(2017年10月29日)