『小学』
日本人の精神的な基盤に影響しているのが儒教です。その代表的な古典のひとつが『小学』(1187年)ではないでしょうか。
南宋の儒学者・朱子(朱熹 1130〜1200)が協力者たちと編集したもの。でも、『論語』や『孟子』、『大学』や『中庸』など、他の古典に比べると影が薄い。専門家の間でも。なぜなのか、と考えざるをえません。
おそらく、子どもの教育を対象とする性格上、大人向けの『大学』よりも重要性が低いとみられること、『論語』など経典からの抜粋と引用から成り立っているために「原典を読めばいい」とみなされること、この2点が主な理由ではないかと素人ながらに思います。
とはいえ、子どもの教育に関心のある人ならば、一度は目を通しておくべき古典だと感じます。この本の注解にあたった宇野さんは「解題」の中で『小学』の占める位置について触れています。
「『小学』に示されたような修己が、少年時代に完成される筈はなく、君子の学をおさめるものには、一生『小学』が基礎にならなければならない」
「子どもの教育」というよりも、基礎に吸えるべき「子ども時代からの教育」ととらえたほうがよさそうです。子どもには学ぶ意味を、大人には教える意義を、最初からきちんと伝えるためにまとめられたもの、それが『小学』だということです。
さて、構成は、内篇(4巻)と外篇(2巻)から成ります。主に、仁義礼智に基づく教えの原則と、それを裏付ける故事やエピソードが続きます。一般的には内篇の「明倫」の巻がハイライトと考えられているようです。
しかし、個人的には、具体的な人々の言葉と行動に絡めて説明する外篇の「嘉言」の巻のほうを興味深く読みました。
たとえば、次のような言葉。
「明道先生曰く、聖賢の千言萬語は、只是れ人の已に放てる心を將ちて之を約し、反復して身に入り来らしめんことを欲するのみ。自ら能く上に向ひ尋ね去かん。下學して上達するなり」
(326ページ)
(明道先生の語に、聖賢の人を訓えられる言葉は、様々であるが、結局、自己の放心をつかまえて、しっかり自分の中に入れよというだけのことである。(放心が身中に落ちつけば)人は自然と向上するもので、いわゆる下学して上達するのである、とある)
「放てる心」をいかにコントロールするか、なによりもまずそこが子どもの教育のスタート地点であり、何度でも立ち返るべきポイントである、ということですね。
さらに『小学』の言葉を続けてみましょう。
「陳忠粛公曰く、幼學の士は、先づ人品の上下、何者か是れ聖賢の為す所の事、何者か是れ下愚の為す所の事なるを分別し、善に向ひ悪に背き、彼を去り此れを取らんことを要す。此れ幼學の當に先にすべき所なり」 (243〜244ページ)
(陳忠粛公の語に、学問に志す少年は、まず人間の上等と下等とを区別し、何が最高の上等の人、すなわち聖人賢者のすることか、何が最下の下等の人、すなわち下愚のすることであるかを見きわめて、自己の中にある下等の劣悪な要素を取り去り、善い要素を取り入れていかなければならない。これが少年のもっとも先に心がけるべきことである)
「夫れ指引するは、師の功なり。行ひて至らざること有り、従容として規戒するは、朋友の任なり。意を決して往くには、則ち須く己の力を用ふべく、他人に仰ぎ難し」 (358ページ)
(目標を示し、これを誘導してくれるのは師の仕事である。行なって不備のある時、物静かに又丁寧に規戒するのは、朋友の任務である。しかし、意を決して道を尋ねていくには、自己の力によることが絶対に必要で、これは他人にしてもらうわけにはゆかないのである)
「漢の昭烈將に終らんとす。後主に敕して曰く、悪小なるを以て、之を為すこと勿かれ、善小なるを以て為さざること勿かれ、と」 (249ページ)
(蜀の先主(劉備)が(四川の永安で疾み)もう駄目だと知った時、その子の後主(劉禅)に勅した言葉に、「悪い事は小さなことであるからとて、してはならない。善い事は小さなことだからといって、それをしないようなことがあってはならない」とある)
いかがでしょうか。
たしかに『小学』の限界も感じないわけではありません。あまり体系的でないこと(題材が恣意的に選ばれている印象が強い)、明確に子どもの発達段階に対応して説明されていないこと、
具体的な指導法を欠くこと、など。でも、『小学』はあくまで「童蒙の課本」であり、実際の教育の場では教える側の大人の知恵と工夫によって、原文を手がかりにさまざまな発見や教えへと展開されていったことでしょう。
この新釈漢文大系は文庫と違って大判です。文章(原文と読み下し文)をゆっくりと追える利点があります。加えて、現代日本語訳の「通釈」、語句を説明する「語釈」、関連の情報を提供する「余説」がバランスよく配置され、読解の手助けとなります。これがとてもいい。
「語釈」を読むと、私たちが特に意識することもなく使い慣れている言葉の別の言い方を学ぶこともできます。「敬対」「返命」「深愛」「立言」など。それぞれ、「応対」「返事」「親愛」「発言」のバリエーションなのですが、普段の固定化した感覚からすると意外に新鮮な感覚で、案外、使えそうです。
また、「稽古」とは「稽は考える。稽古とは、自己の行為の模範とすべく古のことを考究すること」とこの本によって教えてもらいました。
「『小学』なんて、古い」と決めつける人には、朱子の「題辞」の言葉(現代日本語訳)を贈りたいと思います。
「これを読む人々は、今と昔とは種々の生活上の条件が違うからとの理由で、この小学の道を行なおうとするものがない。これらの人々は、今も昔もあまり違わないことは今でも十分にこれを行なうことができることに気がつかないのである」(6ページ)
机の上にどんと1冊置いて、古典を読むのもいいのではないでしょうか。
(知覧俊郎)
■本の紹介
『小学』(新釈漢文大系3)宇野精一著 1965年9月 明治書院発行